高齢者の愚痴

Thomas B.によるPixabayからの画像

 さっき言ったことも聞いたことも教えたことも頼んだことも直ぐに忘れるのに口だけは達者な高齢者が、「今の社会は…」「今の若者は…」と、常套句のように切り出し、自分たちの若かった頃を持ち出し、賞賛し、現代を見下す批判をする発言にはほとほとうんざりする。

 例えば、現代を起点にして、これからの日本の発展や歩むべき道、世界情勢の展望や平和について語りながら、「今の社会や若者たちを見ていると云々」と、いう批判ならまだ同じ視点に立って意見を述べ合うこともできるが、わたしはあなたたちの若い頃のことは耳知識だけだ、知らん。昔の方がよくて現代はおかしいというのなら、日本はどんどん衰退の一途を辿り、テレビも無エ ラジオも無エ クルマもそれほど走って無エ と、明治時代に戻っちまうだろ? と、鼻であしらいたくなるのだ。

 誰だって、昔のことは懐かしくきれいに見えるものだ。わたしも若かった頃と今の若者を比べると、も少し人間味のある暮らしをしていたように思えてならない。

 しかし、人間って事自分の昔話になると、楽しかったことはより楽しかった思い出に美化し、辛かったことはより辛辣に強調して話すものだ。ときにはありもしなかった尾ひれも加えたりして。

 若者と高齢者を川の水で例えるならば、若者は上流の川の水、高齢者は下流の川の水だ。上流の川の水は透き通ってきれいで飲むこともできる。しかし下流の川の水は浄水場で水をきれいきれいしてあげないと飲めたものではない。下流の川の水が上流の川の水を批判するのなら、本流から外れた淀んだ水たまりを批判してくれ。

 高齢者が自分の若かった頃の話をするのなら、当時の話だけに止(とど)めておけばいいのだ。わたしも適当に懐古的かつ適当に歴史好きなので、高齢者の昔話にも興味津々に聞いてあげられるし、温故知新、自分なりにあなたたちの昔話と現代社会とを比べて、これからのよりよい生き方を見いだせる。

 老い先短い高齢者に将来への展望なんてあるはずもなく、ワクワク・ドキドキすることもなくなり、学習能力も知力も体力も記憶も退歩し、日進月歩のIT立国日本のデジタル社会にはついてこれず、スマホも使えなければ、テレビやエアコンのリモコン操作もおぼつかなくなり、同世代の話し相手も次から次へといなくなり、社会からは追いやられ、それでいて矜持だけは失せない毎日を送っていると、自分の若かったあの頃を懐かしみ、振り返ることしかできなくなるのだろう。理に叶ったもの言いならば、わたしも「そのとおりですね」と、うなずくこともできるが、何の根拠もなく、最後の抵抗かあがきか、単に「昔はよかった今はダメだ」だけでは情けないだろう。年寄りの冷や水そのままだ。

 なお、高齢者の愚痴は今に始まったわけではない。わたしも若い頃は高齢者から同じことを言われたし、今の高齢者も若い頃には高齢者から同じことを言われていただろうし、その高齢者も若い頃は同様だったと思うし、そうやって遡っていくと、なんと! 紀元前2000年以上前に建造されたエジプトのピラミッドの壁にも、「今の若い者はだらしがない」と、お年寄りの愚痴が書かれているようだ。

 よって、いつの時代も高齢者とはそういう生き物なのだと諦めるしかないのだろう。口だけ達者な赤ん坊と思えばいい。そして、准高齢者まで後8年のわたしは決して件のような高齢者にはならず、「好々爺になれますよーに」と、願って締めくくるのであった。

タイトルとURLをコピーしました